天文との出会い
第12回 「奈良と天文」

Writer:中川 昇

《中川昇プロフィール》

1962年東京生まれ。46才。小学3年生で天文に目覚め、以来天文一筋37年。ビクセン、アトム、トミーと望遠鏡関連の業務に従事。現在、株式会社トミーテックボーグ担当責任者。千葉天体写真協会会長、ちばサイエンスの会会員、鴨川天体観測所メンバー、奈良市観光大使。

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はじめに

皆さんは奈良と聞くと、どういうイメージを抱かれるでしょうか?おそらく「奈良時代の都、古都奈良」「鹿(せんべい)」「奈良の大仏」という程度ではないでしょうか?奈良はお隣の京都と比べるとはるかに地味で、修学旅行で行ったことはあっても、退屈な記憶ばかりで特にこれといった印象はない、という方が大半でしょう。私が奈良にはまっているという話を聞いても、「中川さん、よく京都に行かれてますよね」とか「関西方面にしょっちゅう行かれているんですね」とか、「奈良」という地名を全く意識されていない方が多いのには驚かされます。おそらく、頭の中に「奈良」という場所や歴史がほとんど認知されていないのだと思います。これは、日本の学校教育できちんと歴史を教えていないせいでしょう。このコラムで、日本人として少しでも奈良を知っていただき、出来れば現地を訪れて、その素晴らしさを実感していただければ幸いです。まずは、有名な万葉集で奈良を詠んだ「あおによし 奈良の都は咲く花の 匂うが如く 今盛りなり」という歌を覚えることから始めましょう。(歌の意味は各自調べてみてください)

奈良との出会い

高松塚古墳の前にある解説板

高松塚古墳の現在の姿

私が奈良と出会ったのは、実は1985年のビクセン時代の出張中のことでした。第3回でも書きましたが、私はビクセン時代に大阪、京都、滋賀の担当の営業だったことがあり、当時関西地区は私を含めて4人で営業をしていました。そして、今度4人でどこか旅行に行こうかという話になり、奈良担当のI課長が「俺が奈良を案内してやるよ」と言い出し、近鉄電車に乗って飛鳥に日帰り旅行にでかけました。このとき、初めて奈良の地を踏み、高松塚古墳やキトラ古墳、石舞台古墳などの古墳を巡りました。奈良に行くまでは私の奈良へのイメージは皆さんと一緒で漠然としたものでしたが、この偶然の出会いから、私の中での奈良のイメージは変わることになりました。ただ、その後は奈良のことを忘れてしまい、その思いが蘇るのはさらに14年後の1999年のことでした。

奈良の魅力

1999年は、第6回にもある通りボーグにとって転換の年でしたが、個人的にも転換の年で、どうしても奈良に行きたくなってしまい、居ても立ってもいられなくなり、懐かしの奈良へ向かう夜行バスに飛び乗っていたのです。1999年11月25日のことでした。それ以来、8年間で数え切れないほど奈良に行きましたが、全く飽きることがありません。寺社仏閣はもちろんですが、風景、月、四季の花、野鳥、星、高校野球、遺跡、河川等々、いわゆる「花鳥風月」と日本文化と歴史が一同に会する、「一瞬で1400年前に遡れる日本文化の屋外博物館」と言っても過言ではないと思います。

奈良好きが高じて、今ではボランティアで「奈良市観光大使」を仰せつかり、折に触れて奈良の素晴らしさをアピールしている次第です。それでは、次に奈良と天文と結びつきについてご紹介したいと思います。

高松塚古墳とキトラ古墳の天文図

高松塚古墳の壁画

さて、皆さんは1972年3月の奈良県明日香村の高松塚古墳の壁画発見の衝撃的なニュースを覚えていらっしゃるでしょうか?当時、10歳だった私もこのニュースをテレビや新聞で見ながら「ああ、考古学上の歴史的大発見があったんだなあ」と思ったことをハッキリと覚えています。この発見を境に、マスコミでも考古学関連のニュースがトップニュースとして扱われるようになりました。天文でいえば、アポロ11号の月着陸に匹敵する歴史的な出来事だったといえるでしょう。ちなみに、高松塚古墳の壁画を発見した網干善教先生によると、当時、考古学と天文学はどちらも日の当たらない学問の双璧だったそうです。思わぬところで、共通項があるものです。

キトラ古墳の天文図

高松塚古墳の天文図

さて、この1400年前に作られたという高松塚古墳と近くのキトラ古墳から、きらびやかな壁画とともに天文図(写真1枚目 高松塚古墳の天文図、2枚目 キトラ古墳の天文図)が発見されたことは天文ファンの間にもあまり知られていません。この貴重な天文図の意味はどういうところにあるのでしょうか?

いろいろ調べてみますと、ヒントは天文学者の山本一清先生の言葉にありました。山本先生は高松塚古墳の壁画が発見されるはるか昔に、「東洋における星座の表現は極めて政治的な意味を持つ」と記述しています。これはどういう意味でしょうか?

まずは、高松塚の天文図からみていきましょう。写真からも分かるように4方向に7つの星座があり計28個の星座(星宿)が描かれています。これを28宿といいます。次にキトラ古墳の天文図をみてみましょう。高松塚古墳よりもずいぶん細かいところまで描かれているのが分かります。高松塚の28宿に対して、内規(周極星)、外規(その土地で見える天の範囲)、天の赤道、黄道、全天の星座(66星座、350星)まで描かれたかなり本格的なもので、天文ファンとしては「この当時に、よくこれだけの天文の知識があったものだ・・・」と驚かされる細かさです。

これらの天文図がどこから来たのでしょうか?当時の日本ではこれだけの天文の知識はなかったようで、中国から入ってきたといわれています。中国で育った宇宙観、世界観が日本に壁画という形で入ってきたようです。その底流にあるのは、天帝による全天の支配という考え方です。被葬者が墓の中にあっても大宇宙を支配ができるようにという思いをこめたものと思われます。ですから、西洋にあるような星座に対してのロマンティックなイメージはほとんどなく、非常に現実的な政治的な意味で天文図を描いたということのようです。これらの天文図は、今のところ現物を見ることはできませんが、恐らくそのうち一般に公開されることと思います。その節は、1400年前の先達に思いを馳せながら、ぜひ見ていただければと思います。

奈良から学ぶこと

高松塚古墳の天文図と四神

さて、実は、高松塚・キトラの両古墳の壁画には天文図の他にも興味深い絵が描かれています。それは、四神(東に青龍、西に白虎、北に玄武、南に朱雀)、日像、月像、十二支です。これらは、いずれも東洋哲学の自然思想を表しているといわれています。これらの考え方は、現代にも脈々と受け継がれているもので、日本人の考え方の基礎をなすものだと思います。 残念ながら、今の日本人は、この歴史ある考え方を忘れている感があります。今こそ、この考え方を思い起こし、古きよき考え方から学ぶことがあるのではないかと思います。

奈良にはそういった古墳や史跡がたくさん残っています。奈良の観光だけでなく、歴史にも目を向けて、過去から学んでいただければ幸いです。

奈良に関する歴史の話は、他にも多くの話題がありますので、本連載でも機会があれば紹介したいと思います。 さて、次回は、この年末の注目の新製品、BORG125SDの開発裏話をする予定です。

※参考文献:
「黄泉の大王」梅原猛著 新潮文庫刊
「高松塚への道」網干善教著 草思社刊
「キトラ古墳は語る」来村多加史著 NHK出版
「高松塚古墳壁画」高松塚壁画館

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