天文との出会い
第2回 Writer:中川 昇

《中川昇プロフィール》

1962年東京生まれ。46才。小学3年生で天文に目覚め、以来天文一筋37年。ビクセン、アトム、トミーと望遠鏡関連の業務に従事。現在、株式会社トミーテックボーグ担当責任者。千葉天体写真協会会長、ちばサイエンスの会会員、鴨川天体観測所メンバー、奈良市観光大使。

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大学時代の中川青年、野辺山遠征

前回は高校生までの天文との関わりについて述べてきましたが、2回目の今回は、大学に入ってからアトムに入るまでの天文人生について振り返りたいと思います。高校には屋上に天体ドームもあり、地学部もあったのですが、内気な中川君は門を叩くことができず、また大学でも天文部はあったものの、中川君はガイダンスの段階で、軟派なクラブの雰囲気になじめず、結局、地元千葉で友人と3人で「八千代天文同好会」を結成することにしたのです。

さらに、船橋駅前のパール地下街にあった「ライオンカメラ」というところで、アルバイトを開始しました。このカメラ屋さんは私が中学2年の時にペンタックスSPFを買って以来、とても親切にしてくれたカメラ屋さんで、現像道具や引き伸ばし道具も全てここで揃えたものです。アルバイトではカメラを販売したり、出入りしていた地元の写真同好会の人たちの作品を見ながら写真談義をしたりと働きながら情報を仕入れていました。ここの店長さんの接客態度はとても温かく、店長のファンが大勢いたことも幸運なことでした。

大学時代の中川青年、上総興津遠征

そんな時、運命のいたずらは母が突然連れてきたのです。母のパートの勤務先にたまたまビクセンの営業のJさんが来られて、うちの息子が天文に狂っている、というと実はアルバイトを探しているのでこないかというのです。このときの母とビクセンのJさんとの出会いが天文を職業にするという私の夢を叶える大きなきっかけになったのです。

ビクセンでのアルバイトは新宿の量販店での望遠鏡の販売という仕事でした。このときにその量販店から叩き込まれた基本的な接客術やビジネスの心得というのは、今でも私の仕事の基礎になっています。ノルマもあり、長時間立ちっぱなし、上司からは怒られっぱなしという非常に厳しい仕事でしたが、望遠鏡を売るという仕事がとても面白く、また高倉健や島田陽子や日下武史などの有名人に望遠鏡を売ることができたり、仕事仲間との販売競争の面白さなど、とても実りの多いアルバイトでした。

また、プライベートでも八千代天文同好会時代に八千代市少年自然の家で行った天体写真展がきっかけで、遠藤さん(現誠報社)と出会い、八千代天文同好会は「船橋天文同好会」と合併。さらに天体写真仲間が集まり1984年に「千葉天体写真協会」が発足しました。この千葉天体写真協会の話は、回を改めて詳しく話をしたいと思います。

さて、このアルバイト時代の実績が認められて、Jさんの推薦もあり、晴れてビクセンの社員になることができました。子供の頃からの夢が叶ったのです。私が入社した1984年は、ビクセンとしてもニューポラリス赤道儀からスーパーポラリス赤道儀に切り替わる記念すべき年で、また、翌1985年には新宿から所沢に社屋を移転、さらに翌1986年にかけてはハレー彗星の大ブームが起きるなど、大きな変化の節目の時期でした。ビクセン時代は、最初は量販店担当になり、営業とアルバイトの手配(50人以上のアルバイトの管理)、さらには地方出張で全国をまわり、観望会や講習会や展示即売会などを精力的にこなしました。

ビクセン時代の中川青年、協栄東京店・オープンセール

そして、1985年ついに地区担当を持たされ、11泊12日という長期出張が毎月あるというビクセンの地獄のルートセールス生活が始まったのです。担当地区は大阪、京都、滋賀でした。何がつらいかというと、大好きな天体写真が年間144日間も撮れないという悲しさ、また天文ファン以外にも望遠鏡を売って歩かなければいけないという難しさにほとほと嫌気が差してしまったのです。実はこのとき、ハレー彗星の大ブームが来て、望遠鏡の在庫がなくなるほどの凄まじい売れ行きを経験しました。本当に倉庫が空になって営業マン同士で望遠鏡の奪い合いが繰り広げられていたのです。しかし、1986年4月ハレー彗星が去ると共に、ブームも去り、今度は増産した望遠鏡の在庫の山と格闘することになるのです。

ビクセン時代の中川青年、長野のカメラのヤマモト・ビクセン セール

さて、ボーグとの運命の赤い糸はビクセン時代にもありました。トミーがハレー彗星ブームを当て込んで発売したファミスコ60Sは短期間に何と6万台も売れました。しかし、ブーム終了前に増産した在庫が売れ残り、筒の色を変えてビクセンに売込みがあったのです。オレンジ色のハレースコープ60Sというモノです。なんの因果か中川青年はこのハレースコープを売ることになったのです。(なかなか売れませんでしたが・・・)

さて、ビクセンの超長期出張に嫌気が差していた中川青年のところに、思わぬ話が舞い込んできました。それは、アトムという望遠鏡販売店から、今度横浜に新店舗を出店するので、その横浜店の店長にならないか?というものです。アトムにはすでに東京店に遠藤さんがいましたし、何より自宅から通えて、毎日大好きな天体写真が撮れるというので、喜んでその話を受けることにしました。1986年11月のことでした。

アトム時代のチラシの校正紙(左端にファミスコが載っている)

アトムでは平井社長から帝王学を学びました。横浜店はスタートこそ低迷しましたが、序々にお客様が付き始め、2年目からはバブル景気の恩恵もあり、面白いように望遠鏡が売れるようになりました。そんな時、アトムでもボーグとの運命の赤い糸がありました。例のファミスコの最後の売れ残りをアトムが4000本も買い込み、その処分を任されたのです。最初はお店の天井までうずたかく積まれたファミスコの山をみて呆然としましたが、\3,000という安さもあり、あっという間に完売してしまいました。平井社長の先見性の高さに舌を巻いたのを覚えています。

アトムでは新店舗の立ち上げという難しい仕事に加えて、通販広告作りという非常に面白い仕事を覚えました。次回はアトムでの仕事ぶり、トミーからの誘い、そしてボーグ事業の立ち上げについて触れてみたいと思います。ご期待ください。

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