天文との出会い
第5回 「金属鏡筒の登場」 Writer:中川 昇

《中川昇プロフィール》

1962年東京生まれ。46才。小学3年生で天文に目覚め、以来天文一筋37年。ビクセン、アトム、トミーと望遠鏡関連の業務に従事。現在、株式会社トミーテックボーグ担当責任者。千葉天体写真協会会長、ちばサイエンスの会会員、鴨川天体観測所メンバー、奈良市観光大使。

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前回述べた通り、残念ながらプラスチック鏡筒は市場から受け入れられず、ボーグにとっては金属鏡筒の開発が最優先の課題となりました。「対物レンズ交換式・軽量・コンパクト・ターレット接眼部」といったボーグの特長を維持したまま、鏡筒だけは金属にするということは簡単そうで、なかなか難しい課題だったのです。最大の問題は接眼部でした。従来の望遠鏡と同じラックアンドピニオン式の接眼部では、他社の望遠鏡との差別化を図ることは難しく、市場の中で埋没は明らかで、他の方式の採用が絶対条件でした。ここで、救世主が現れました。サガ技研という金属加工専門の業者さんです。サガ技研さんは尾崎社長という名物社長が実質一人で仕切っていた会社です。このサガ技研さんを中心とした「加工屋さん集団」が凄いネットワークを持っていたのです。

金属鏡筒カタログ

そもそも、このサガ技研さんとの出会いは、ボーグのプラスチック鏡筒用のカメラマウントの生産を頼んでいたのが縁でした。宮崎さんが初めてサガ技研さんを訪問したときに、尾崎社長も宮崎さんも運命の赤い糸を感じたそうです。尾崎社長いわく、「宮崎さん、あんたのような人を待っていたんだ」。宮崎さんいわく、「あんたのような業者を探していたんだ」。その晩は大いに盛り上がったそうです。というわけで、取引が始まり、金属鏡筒の生産もとんとん拍子にまとまりました。

ニコンのカタログ

もともとカメラレンズ関連の生産をしていましたので、ヘリコイドもお手のもので、懸案の接眼部もあっさりヘリコイドに決まりました。金属鏡筒のデザインは、ニコンの8cmED鏡筒を参考にしました。それまでに発売されたヘリコイド付の天体望遠鏡としてはほぼ唯一のものだったのと、さすがニコンという洗練されたデザインだったからです(PENTAXの10cmEDF4がありましたが、これは望遠レンズ的性格を強く持ったものでした)。

76EDのカタログ

こうして、ボーグプラスチック鏡筒の発売から2年半後の1994年2月に無事BORG金属鏡筒は発売されました。ヘリコイドが標準装備された望遠鏡としては圧倒的に安く、当時の天文ファンに広く受け入れられました。特に金属鏡筒発売記念特価で発売したBORG76ED金属鏡筒は¥59,800というお手ごろ価格も相まって、このクラスのベストセラーとなりました。

というわけで、ボーグ存続の危機はひとまず去りました。このころ、皆既日食や金環日食が相次ぎ、海外ツアーに最適な機材としてボーグが注目されました。営業的にも黒字が出るようになり、開発費にも余裕が出てきましたので、100EDの次の機種という話も出てきました。ボーグ発売当初は、125ミリなど考えられなかったのですが、藤井光学さんとサガ技研さんのネットワークのお陰で段々自信がつき、125のアクロマートの発売を経て125EDの発売を検討するまでに発展できたわけです。

125EDのカタログ

さて、BORG125EDの開発ですが、これは宮崎さんの得意とする写真用の設計でしたから、比較的短時間にレンズ設計ができました。レンズの生産も藤井光学さんが頑張ってくれ、思っていたよりもうまくいきました。市場も6×7判による銀塩撮影がブームになっていましたので、待望の大口径・低価格の新製品登場ということで大いに話題になりました。初回ロットは予約で埋まり、注文が殺到しました。そして、1995年2月に無事発売することができたわけです。金属鏡筒の登場からわずか1年で、125EDを発売してしまったのですから、今考えるとその勢いたるや凄まじいものがあります。また、このときに私が作ったBORG125EDの雑誌広告が、新製品告知のお手本的広告として、広告業界のテキストになったというおまけまでありました。

ただ、好事魔多しで、この直後、(株)トミーが業績不振で50歳以上全員解雇という大リストラを実行、ボスの宮崎さんも退社することになりました。いよいよ、名実共に私が責任者となることになったわけです。私も管理者には不向きな性格なので、正直誰か上司になってくれないかなと思いましたが、そうもいかず、33歳にしてボスになったわけです。宮崎さんは、その後も外部ブレーンとしてボーグの開発に深く関わっていただいていますが、当然ながら最終判断は私がすることになり、その責任の重さは今も両肩にずっしりとのしかっかっています。

さらに追い討ちをかけるように、お世話になったサガ技研の尾崎社長がガンで亡くなられました。尾崎社長との思い出で忘れられないのは、1994年10月8日(土)の中日VS巨人のいわゆる10.8決戦の夜のことです。中日の大ファンである私は、本当は自宅でゆっくりと野球観戦をしたかったのですが、125EDの鏡筒の試作がどうしてもその日でないと間に合わないということで、休日出勤して会社で尾崎社長を待っていました。そして、その足で福島県の浄土平に試写にいかなければいけないという強行軍だったのでした。尾崎社長が会社に着いたのが、まさにナイター中継の真っ最中で、打ち合わせをしながらテレビが気になって仕方なかったことを鮮明に覚えています。結局サガ技研さんは廃業されましたが、そのネットワークはしっかりと残り、今でもボーグを生産し続けてくれています。あの豪快な尾崎社長あってのボーグだと感謝しています。というわけで、ボーグは今でも「MADE IN JAPAN」を維持し続けているわけです。

キャンペーンDM

さて、この頃のボーグの責任者としての悩みはたくさんありました。まず、もっとも悩ましかったのが、販売店や天文雑誌とのお付合いでした。元々人付き合いが苦手で、どうも業界のとんがった方たちとの相性も悪く、うまく折り合いがつけられませんでした。また、1995年の12月には、販売店への不信もあって、直販宣言をしました。そして、オアシス・ダイレクトのDMキャンペーンを開始したのです。当初は販売店からの反発もありましたが、結果的にはこの選択は正解でした。今でも年2回のキャンペーンDMを欠かさず実施しており、この夏で24回目になります。さらに、天文雑誌のテストレポートにも悩まされました。我が子のようにかわいいボーグを批判されるのは耐え難いことでしたが、今考えると、批判は批判として受け止め、冷静に対応すべきだったかなと反省しています。これだけ紆余曲折のあった愛着のある製品ですから、なかなか大人にはなれないものですね。

さて、この後ボーグは125EDのさらに上位機種、125F2.8EDや150EDへと突き進むのですが、今度はマニアックになりすぎて、またまたボーグの雲行きが怪しくなってきます。次回は、再び売れなくなってしまったボーグの救世主、ミニボーグの登場の話をしたいと思います。

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