Ironwood Remote Observatory Hawaii
第1回 「初の自宅天文台とその後・・・」

Writer: Ken Archer氏

《Ken Archerプロフィール》

米国・ハワイ州オアフ島在住。アロハ航空の機長を務めるかたわら、自宅に天文台を建設して以来、その性能向上に力を注いできた。リタイヤ後の今は、天文台の自動制御に関連したビジネスを展開している。ホームページ「Ironwood Observatory」を開設中。


米・ヤークス天文台を訪れたKen Archer氏の画像

Ken Archer氏(米・ヤークス天文台ワーキングツアーにて)

Ken Archerと申します。「星職人」のコラムに登場させていただくことをたいへん光栄に思います。まず第1回目は自己紹介と、私がどのようにして天文に興味を持つようになったのかについてお話しましょう。

私は、米・カリフォルニア州に生まれ、1968年にハワイ州に引っ越してきました。天文に興味を持ち始めたのは1980年代半ばからだったと思います。最初の望遠鏡は、ミードの60mm 経緯台式で、息子といっしょに惑星や彗星を観測して楽しみました。以来、私と息子は天文に関するプロジェクトを立ち上げて、いっしょに働いてきました。

初めての自宅天文台は、我が家の裏庭にセメントで固めた土台の上に支柱をボルトで固定してつくりました。また、夜間は柱を使って黒い防水シートを引っ張り上げ、周囲の明かりを遮っていました。撮影に使った望遠鏡とカメラは、ミードLX-10とオリンパス OM-1でした。天文台を建設してからずっと、私は天文台の性能と自身の撮影技術の向上を目指してきました。

その後、運よくホノルルから、ハレイワという町の近くにある光害の少ない場所に引っ越して3世代住宅を建て、2000年に1.83mのドームを建設しました。当時のドームはまだ手動で、望遠鏡はセレストロン C11、架台はロスマンディ G11、カメラはSBIG STVでした。

徐々に天文台の性能は改善され、ドームの回転やスリットを制御するためのモーターを設置しました。そして2003年ついにタカハシ NJP Temma とBRC-250を、CCDとカラーフィルタ・ホイール、三ツ星のOAG(オフアキシスガイダー)とガイド用カメラとともに導入しました。SBIGのカラーフィルタ・ホイールCFW8をOAGに取り付けるにあたっては、カメラとBRCのバックフォーカスを確保できる適切な部品を探すのに、三ツ星の社長村上氏にずいぶん助けてもらいました。

Archer氏とタカハシ BRC-250の画像

Archer氏とタカハシ BRC-250

自宅天文台をモーター化すると、新しいタカハシの機材を設置しました。そこで、尊敬する日本の天体写真家に手紙を書き、NJPとBRC-250の最適な使い方や撮影技術などについてアドバイスを求めました。彼はビットラン製、私はSBIGのカメラを使っていましたが、ピクセルスケールや視野が同じでした。これが幸いし、撮影技術を容易に学ぶことができたのです。私にとって彼は今でも優れた師匠で、彼のホームページをよく訪れてはすばらしい作品の数々に賞賛を送っています。

さて、エルニーニョ現象の影響で、ハワイでは12月から6月まで乾いた晴天に恵まれる年が数年続きました。ある晩、師匠と私は、チャット用ソフトウェアとウェブカメラを使って会話をしていました。ある晩師匠が、ハワイにある私の自宅天文台から見る空なら、日本に比べて、もっといい画像が撮影できるのにと言い出したのです。私は早速、彼が私の天文台のコンピュータを遠隔操作できるようにしてみました。ただし、彼が遠隔操作を行うとき、私は望遠鏡とドームが連動して動作しているか、必ず確認しなければなりませんでした。それでも、初の遠隔操作による撮像は、とてもエキサイティングなことでした。

当時、天体望遠鏡とドームを連動させる、統合制御ソフトはありませんでした。たとえば、ドームは問題続きでした。ドームのソフトウェアはフォーク式のミード LX-200を基本にしたもので、ドイツ式赤道儀のNJPに対応していませんでした。そのため、遠隔操作が行われる際に、私はハンドパドルを使ってドームを手動で開けていました。

そんなある日、あるソフトウェアのプログラムを使えば、もっと統合した状態で天文台を動作させることが可能だと気づきました。さっそくソフトウェアを購入するすると、天文台の状態はよくなりました。また、OAGをミニボーグ45EDと入れ替えたことで、遠隔操作する人にとってガイド星の導入が楽になりました。また、新しいソフトウェアは、ダーク、バイアス、フラットなどの処理を自動的に行ってくれるのです。つまり、ダーク、バイアス、フラットを再利用でき、画像はすでに一部が処理済みとなるのです。インターネット上からダウンロードするファイルの数も少なくて済みました。

その他、これまでに私が乗り越えてきた問題点を以下に紹介しましょう。

撮影終了後に、その都度NJPをどうやって止めるか?

当時、ソフトウェアで、望遠鏡を格納位置に戻したり、追尾制御することもできませんでした。しかし、格納位置に戻し、追尾を止めるためのドライバの書き方の書類を見つけたおかげで、この問題は解決しました。

急な天候の変化(降雨など)が起きた場合、ドームをどうやって閉めるか?

ドームメーカーから雨検出器があると聞きました。しかし、あまりに動きが遅いため、ドームが閉まる前にハワイの強いスコールで天文台が台無しになることは目に見えていました。その後、ある発明家から、雲と雨の検出器を紹介してもらいました。機器からドームに直接、閉じるための信号が送られるというものでした。

その後、数人の友人を説得して、ソフトウェアのプログラムを書いてもらいました。私が“ WeatherWatcher”と名づけたこのプログラムは、自宅気象台と雲の検出器をモニターでき、該当する複数の天気パラメーターが基準を超えた際にはドームが閉まり、望遠鏡が安全な位置に向きを変え、追尾を止めるという仕組みになっています。

望遠鏡とスリットの位置をどうやって連動させるか?

この問題を解決するには、5年の歳月を要しました。最終的にドームメーカーはエンジニアを雇って、ASCOMの統合制御ソフトと一緒に動作するドライバを書かせました。ちなみにASCOMは、今ではたいていの天文台で使われている統合制御ソフトです。

さて、しばらくしてから、私は天文学を第二のキャリアにと考えるようになりました。ある日、地元のコミュニティカレッジへ行ったところ、そこには50.8cmのリッチー・クレチアン光学系を設置した5.5mのドームがありました。私が天文学を勉強したいので専門のコースがあるかと尋ねると、教授には「学校へ通うには、あなたは歳をとり過ぎていますよ」と言われました。教授の部屋の壁には、天体写真が貼ってありましたが、私は、それらがたった5秒露出の画像であることに気づきました。そして、教授にぜひ私の自宅天文台に来て、撮影してみては?と誘ってみたのです。彼の答えは「イエス」でした。

さらに、私のIronwood Oservatory のホームページも教授に見せました。私のホームページにはたくさんの天体画像を掲載していますが、それを見るなり教授は、彼の天文台も同じような設備にしたい、手を貸してくれないか?と言ってきたのです。そのとき、私は自分が歳をとりすぎているどころか、むしろ人の役に立つのではと感じました。教授と私は、すぐに情報を共有し合い、教授にも天文台のメンテナンスや画像撮影など、いろいろなことを教えました。

アロハ航空機長時代のArcher氏の画像

アロハ航空機長時代のArcher氏(背景の窓から見えるのは、マウナケア山)

そんなやり取りが続くなか、ようやく教授は、天文学を学べるところはないかという私の質問に疲れ果てたのか、オーストラリアのジェームス・クック大学にいる、彼の同僚を紹介してくれたのです。ジェームス・クック大学では、インターネットによる通信教育システムを行っていました。インターネットを利用したシステムは、パイロットである私にぴったりでした。パイロットのスケジュールは頻繁に変更されますし、また毎週同じ時間に行われる授業にスケジュールを合わせることもできません。

そして私は、晴れて55歳で入学し、学生に戻りました。そして、天文学の修士号をとり、2005年58歳で卒業しました。私の学位は、研究向けというより、天文台やプラネタリウム向けのものでしたので、天文台の建設や関連した新しい手法を生み出すことが好きな私にうってつけでした。

2005年、私はアロハ航空の機長を退職し、Ironwood Obervatoryとして、フルタイムでビジネスを開始しました。その後、大きな天文台に関わる仕事をしてきました。動作の信頼度を上げたり、インターネットからのアクセスを可能にするシステムを整備するなかで、天文台には統一した規格というものがなく、それぞれがバラバラであるということがわかったのです。

次回は、天文台が抱える伝統的な問題点と、私がそれらの問題にどのように取り組んだかについて触れてみたいと思います。

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