【訃報】古川麒一郎さんのご逝去によせて

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位置天文学、天体力学、暦法の研究者で理学博士の古川麒一郎さんが、6月29日に86歳で永眠されました。

【2016年8月10日 アストロアーツ】

6月29日に亡くなった古川麒一郎さんは、日本天文学会理事、東亜天文学会副会長、日本暦学会会長などを歴任されました。古川さんのご冥福をお祈りするとともに、以下に、中野主一さんに寄稿いただいた追悼文を紹介します。


【追悼】古川麒一郎先生を送る

位置天文学、天体力学、暦法(こよみ)の権威であった古川麒一郎先生が6月29日に亡くなられた。享年86。先生は、1929年7月22日大阪市生まれ、間もなく87歳の誕生日を迎えられる前の逝去であった。先生は、1969年には「浮遊天頂儀緯度観測の統計的誤差」の研究で、京都大学から理学博士の学位を受けられた。その後、長きにわたって水沢緯度観測所や東京天文台(現、国立天文台)に勤務された。さらに日本天文学会理事、東亜天文学会(OAA)評議委員、副会長、日本暦学会会長などを歴任された。ご冥福をお祈りします。

先生は、1947年頃から小惑星や彗星の軌道計算を始められた。さらに1960年代には、大型電算機(コンピュータ)による軌道計算を開始。当時の国際天文学連合(IAU)の天文電報中央局の回報(IAUC)には、先生の計算された軌道が何度も登場している。また、彗星の軌道は、多くの場合、後進の新しい軌道に置き換えられるが、今でもマースデンの彗星カタログ(最終版)には、本田彗星(1947 V1)と大道・藤川彗星(1970 B1)の軌道が掲載されている。

古川先生が軌道計算を行っていた1960年代から1970年代にかけて、日本のアマチュアによる新彗星発見はその全盛期を迎えていた。また、多くの彗星観測者も育っていたこともあって、1971年に愛知県蒲郡市で第1回彗星会議が開催された。そこで、広く一般にアマチュアの活動を紹介するために出版物の発行が企画された。そして、日本の彗星観測や軌道計算を紹介する出版物として、長谷川一郎先生と古川先生が監修する『OAA Comet Bulletin No.1』が1971年8月1日に発行されることになった。なおこの回報は、OAA彗星課から今も引き続き発行されている。

1976年になって、私は日本天文学会の大塚奨学金を受け「特別摂動の数値計算」の研究で、東京天文台天体掃索部(当時)で活躍されていた先生の下で指導を受けることになり、当時の天文台の大型電算機を使用させていただいた。先生の指導を受けた1年の間にプロの怖い先生という私の印象は変わっていった。1977年には、主にアマチュアを対象にした勉強会を行うことを先生に引き受けていただいた。先生の提案で勉強会の名を「ガウスの会」とすることとなり、1977年5月に1回目の勉強会が行われた。ガウスの会は、今、参加名簿を見直すと、1回でも参加した方を含めると総勢にして約50名近くが参加している。中には思わぬ人の名前も目にするほど、当時は軌道計算に興味を持つアマチュアが多かった。

この時期先生は、岡山の188cm望遠鏡や木曽の105cmシュミットを使用して太陽系内天体の精密位置の観測にも励まれていた。木曽シュミットでは、同僚であった香西洋樹氏とともに小惑星の捜索も行い、1976年から1986年までに多数の小惑星を発見し、その中の91個の番号登録小惑星について命名権が与えられた。

1982年から4年間、私は、急速に発達したマイコンを使用した書籍を著作したり、テレビにも出演していた。うれしいことに、今でも「中野さんのテレビを見て、星に興味を持ちました」と言ってくださる方がいる。そのとき東十条に住んでいた私は、毎月のように先生のご自宅を訪問していた。また先生には、ときどき私の自宅を訪れていただいた。その時期、先生は口癖のように「軌道計算で金が稼げるとは思わなかった」と言われていたことを思い出す。米国在住時(1986〜1990年)にはご家族で、わざわざケンブリッジまで来ていただき、アーリントンの自宅で楽しい時間を過ごした。この頃には先生は、暖かい家庭の味をほとんど知らない私を実の家族のように扱ってくださった。

しかし1990年帰国後は、私は東京から離れたため疎遠になってしまった。今年5月11日になって奥様から「本日、入院しました。お医者さんから危ないと言われています。一度、会っておいてください」という連絡をいただいた。あわてて5月13日に先生のお見舞いに出向いた。そのとき先生は、療養のためか痩せているもののお元気そうに私には見えた。しかし6月29日朝、奥様から訃報が届いた。奥様は「最後に中野くんによろしく…と言って亡くなりました」とのことであった。奥様の言葉が、訃報を知って愕然としている私を励ますお言葉であったとしても、そう思われたことは、身に余る光栄であった。

私は長谷川・古川両先生から、軌道論以外にも、多くの人生論、社会論をお教えいただいた。二人の先生は、私の父と比べても、先に亡くなられた長谷川先生が7歳、古川先生でも8歳しか違わない。生涯父と仲が悪かった私にとって、二人の先生は父親以上の人生の師でもあった。二人の大先生にこのように好かれた私は、実に幸せな人間であった。また、若いときから尊敬する大先生方にお仕えできたことを誉れとして、今後の人生を生きていきたい。

2016年7月20日 中野主一(天文電報中央局アソシエイツ)


古川麒一郎さん
古川麒一郎さん。2005年11月の「古川麒一郎先生の喜寿を祝う会」にて(撮影:星ナビ編集部)

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