「伊能図」完成から200年! 都内で聖地巡礼

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伊野忠敬率いる測量隊が手がけた「大日本沿海輿地全図」は、今から200年前の1821年に完成しました。測量隊の「あしあと」は全国各地に残されていますが、今回は都内にある伊能忠敬ゆかりの場所を訪ねました。

はじめに

 「大日本沿海輿地全図(通称 伊能図)」は、緯度経度も含めた初めての精密な日本地図で、昭和初期まで使われ続けたという実績があります。これほど高精度な地図を作ることができた背景には、地道で丁寧な測量を長年にわたって続けた伊能忠敬の情熱がありました。
 星ナビ10月号では「伊能忠敬のあしあと」と題して、当時の測量方法について「天測」の観点から紹介しています。「星空ナビ」も電波時計もコンパスアプリもGPSもない時代に、いかにして精密な天体観測を行うことができたのか? そのノウハウは星ナビを読んでいただくとして、ここでは星ナビ編集部・ふじたが、記事を担当するにあたって訪れてみた、東京都内の「あしあと」を紹介します。

地図測量における「天測」をわかりやすく解説。

みなさんも伊能忠敬聖地巡礼の第一歩をご一緒に!

古墳の上の天の川 −伊能忠敬測地遺功表

 三田線芝公園駅すぐ、芝公園の丸山古墳内に「伊能忠敬測地遺功表」があります。伊能忠敬の測量の起点が、この芝公園近くの高輪大木戸だったため、東京地学協会によって1889年(明治22年)に建てられました。その後戦災で失われましたが、1965年(昭和40年)に再建されたとのこと。高台なので階段を登らねばなりませんが、緑に囲まれて気持ちの良いところです。

測地遺功表。古墳の上にあるというのがおもしろい。

 2枚の石碑のうち1枚には日本列島が、もう1枚には碑文と天の川・星々が彫り込まれているのが特徴です。よく見ると、天の川の中にカシオペヤ座のW字のような並びと、その上に北極星とこぐま座らしい星の並びがあります。観測地点の緯度を知るには北極星の高さが重要な基準となるので、測地遺功表に北極星が刻まれているのは理にかなっていますね。とすると、写真手前はカペラ、奥の2星はベガとデネブかもしれません。

表面に彫られた天の川と星々。天の川の中にカシオペヤ座の星の並びが見える。奥の2つはベガとデネブの可能性があるが、天の川との位置関係が合わないので違うかもしれない。

近くの増上寺は大殿の向こうに東京タワーがそびえる観光スポットで、都市星景写真の前景としてもおすすめ。

祈ったのは成功と晴天か −富岡八幡宮 伊能忠敬像

 芝公園から地下鉄を乗り継ぎ、東西線門前仲町駅へ向かいました。駅徒歩数分のところに、忠敬が測量に出かける前にお参りしたという「富岡八幡宮」通称「深川の八幡さま」があり、ここの鳥居のそばにたいへん立派な忠敬の銅像が建てられています。測量開始200年を記念して2001年(平成13年)に作られました。


 16年以上、計10回にもおよぶ測量で、文字通り日本各地を訪れて天測を行い、海岸や街道の距離を綿密に測って地図づくりを進めた伊能忠敬。道中の安全や隊員の健康だけでなく、晴天もしっかり祈願して測量に臨んだに違いありません。

日本地図を背景に、一歩を踏み出す。「いざ測量へ!」と声が聞こえてきそうな躍動感のある銅像。

銅像が西を向いているのは、もしかして故郷である下総国佐原(現在の千葉県香取市)をめざしている?

ビルの谷間に偲ぶ − 伊能忠敬住居跡

 同じ門前仲町に「伊能忠敬住居跡」があります。駅からは富岡八幡宮と反対方向に徒歩3分ほど。葛西橋通りに面した住居跡は、石碑が建つのみで少々寂しい印象です。
 星ナビ10月号でも解説していますが、伊能忠敬は「緯度1度の距離」を測ることに情熱を燃やしていて、その手始めとして自宅と浅草天文台を歩測して距離と方位を記録し、これを緯度1度に換算することに挑戦しました。というわけで聖地巡礼に挑戦する方は、住居跡から台東区浅草橋の「浅草天文台跡」まで、ぜひ歩数を数えながら歩いてみてください。忠敬の歩みを実感するチャンスです。

石碑には「伊能忠敬住居跡」の文字と、忠敬の略歴が記されていた。

住居跡と浅草天文台の間には隅田川が流れているので、測量も大変だったのでは……

緯度1度の距離はいかに!? −浅草天文台跡

 GoogleMapによると、忠敬の住居跡と浅草天文台跡の直線距離は3.04km、道なりでは約3.7km、徒歩48分と表示されます。さあみなさん、がんばりましょう。私ですか? もちろん地下鉄に乗りました。
 浅草線の蔵前駅が最寄りです。浅草天文台は葛飾北斎の『富嶽百景 浅草鳥越の図』にも描かれていることで有名ですが、現在では天文台があったことを思わせるものはこの案内板だけ。周囲はビルとマンションが立ち並び、ここで夜な夜な天体観測が行われていたとは信じられないほどにぎやかです。
 さて、せっかく浅草天文台との距離を測った忠敬ですが、師である高橋至時に「そんな短い距離じゃ緯度1度に換算しても誤差が大きすぎて、正確な数字は出せないでしょ」と言われてしまいます。それで「じゃあ蝦夷までならどうですか!」と奮起し、その勢いで蝦夷地への測量を計画したとかしなかったとか。

天文台跡を示す案内板は、蔵前橋通りと江戸通りの交差点の一角にある。実際に天文台があったのは、案内板から南西に少し道を入ったあたり。

高橋至時に天文を学んでいた忠敬。もしかして自宅から天文台まで連日歩いて往復していた可能性も……!?

敬愛する師と並んで眠る −源空寺 伊能忠敬・高橋至時の墓

 最後は上野の源空寺にある伊能忠敬のお墓を訪れました。浅草天文台跡から徒歩で20分ほど。忠敬なら歩いたでしょうが、半日あちこち回ってすっかり疲れた軟弱な私は籠…ではなくタクシーに乗りました。地下鉄だと接続が微妙で遠回りなんです。なお、源空寺周辺はお寺密集地帯で、どの墓地がどのお寺に属しているのかわかりづらいのでご注意を。
 50歳で家業を息子に譲った後、江戸へ出て天文方・高橋至時に師事した忠敬。彼は自分より20歳も若いこの先生をとても慕っていました。至時は忠敬に先んじて40歳の若さで亡くなりましたが、忠敬は自分の墓を先生のそばに、と言い残したと伝えられています。
 並んで建つ2人のお墓の脇には、故人の経歴を記した案内板も建てられています。また、至時の息子・高橋景保の墓も隣にありました。彼は父の跡を継いで天文方をつとめ、忠敬の死後「大日本沿海輿地全図」を完成させた功労者ですが、後に同図の国外持ち出しを図り、処刑されました(シーボルト事件)。
 お墓に手を合せ、「素敵な特集になるようがんばりますので見守ってください」とお願いしました。願いは聞き届けられたのか……それは星ナビを読んであなたが答えを出してくださいね。

伊能忠敬(右)と高橋至時(左)の墓。一般の墓地でもあるのでマナーを守ってお参りしよう。

測量隊が訪れた場所の記念碑は、全国に100か所以上あるそうです。みなさんも、身近な「伊能忠敬のあしあと」を探してみましょう!!

リンク・参考

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